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報道カメラマン・石川文洋の軌跡を描く
劇団文化座公演『撮ること在ること』観劇前の予習に。
フランスからの独立からサイゴン陥落まで、30年の流れを地図とともにたどります。

ベトナム戦争は、1960年代のアメリカとの戦争から始まったわけではない。
当時のベトナムは、ラオス、カンボジアとともにフランス領インドシナを構成し、フランスの植民地支配を受けていた。
1940年、日本軍がインドシナ北部へ進駐し、翌1941年には南部にも進駐する。1945年3月には日本軍がフランス軍を武装解除し、フランスの支配は事実上終わる。
その頃、独立運動を率いていたのがホー・チ・ミンらの「ベトミン」だった。
日本の敗戦後、ベトミンは「八月革命」を進め、1945年9月2日、ホー・チ・ミンはハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言する。
しかし、フランスは再び支配を取り戻そうとした。
1946年末、フランスとベトミンの戦闘が本格化し、第一次インドシナ戦争が始まる。
戦争はやがて冷戦とも結びついていった。フランスをアメリカが支援する一方、ベトミンには中国やソ連から支援が入った。
そして1954年、ベトミン軍がフランス軍をディエンビエンフーで破る。
ジュネーヴ協定によって戦争は終わり、ベトナムには北緯17度線付近を基準とする暫定的な軍事境界線が設けられた。
ただし、これは国境ではなかった。
1956年には全国選挙による統一が予定されていたが、選挙は実現しなかった。
こうして、植民地からの独立をめぐる戦争は終わった。
しかしベトナムは、今度は「南北をどう統一するのか」という新たな対立の時代へ入っていく。
そしてそこに、アメリカ、中国、ソ連という大国が深く関わっていくことになる。

1954年、フランスとの戦争が終わると、ベトナムは北と南に分かれた。
南ベトナムでは、ゴ・ディン・ジエムが政権を握り、アメリカは反共産主義の防波堤として、この政府を強く支援していく。
しかしジエム政権は次第に強権的になり、反対勢力を弾圧。1963年には仏教徒への弾圧をきっかけに、大きな政治危機が起きた。
一方、北ベトナムは南での武装闘争を支援。1960年には南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成され、政府軍との戦闘が激しくなっていく。
さらに北から南へ人員や物資を運ぶ「ホーチミン・ルート」が、ラオスやカンボジアを通る形で整備されていった。
アメリカは軍事顧問団を送り込み、南ベトナム軍の育成を進めた。1962年には軍事支援の態勢をさらに強化し、枯葉剤の散布も始まる。
1963年11月、ジエムはクーデターによって政権を追われ、殺害された。
その約3週間後の11月22日、アメリカではケネディ大統領が暗殺され、ジョンソンが大統領に就任する。
南ベトナムの政治は安定せず、北の支援を受ける勢力との戦闘は拡大。
そして1964年、トンキン湾事件をきっかけに、アメリカの軍事介入は新たな段階へ入っていく。
ベトナムの内戦は、やがて世界を巻き込む大きな戦争へと変わっていった。

1964年、ベトナムでの戦争は大きな転換点を迎える。
8月2日、アメリカ海軍の駆逐艦マドックスが、トンキン湾で北ベトナムの魚雷艇から攻撃を受けた。
さらに8月4日、マドックスとターナー・ジョイが再び攻撃を受けたと報告する。しかし、この「第二次攻撃」については直後から疑問が生じ、後の調査では実際には攻撃が起きていなかった可能性が極めて高いとされている。
それでもジョンソン大統領は議会に対応を求め、8月7日、「トンキン湾決議」が成立する。
この決議は大統領に東南アジアでの軍事行動について広い権限を与え、アメリカの戦争拡大を支える重要な根拠となった。
1965年2月の報復爆撃に続き、3月2日、北ベトナムへの継続的な大規模爆撃「ローリング・サンダー作戦」が始まる。
3月8日には、3,500人のアメリカ海兵隊がダナンに上陸。
アメリカ軍は本格的な地上戦へと踏み込み、年末には兵力約18万4,000人にまで膨れ上がった。
ベトナムの戦争は、もはやアメリカの「支援」ではなく、アメリカ自身が戦う戦争へと変わっていった。
この時代を、レンズ越しに見つめた男がいた――
報道カメラマン・石川文洋の軌跡を描く舞台『撮ること在ること』

圧倒的な軍事力を持つアメリカと、国土も経済力も小さなベトナム。
この戦いは、しばしば「象と蟻の戦い」と表現された。
アメリカ軍は、航空機や砲兵など圧倒的な火力を使って敵を撃破しようとした。
一方、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、正面からぶつかるのではなく、農村部を基盤にしたゲリラ戦と長期戦を展開した。
さらに、ラオスやカンボジアを通る「ホーチミン・ルート」を使い、人員や物資を南へ送り続けた。
アメリカ軍は敵を発見するために森林を焼き払い、航空爆撃やナパーム弾も使用した。そして1962年から1971年にかけて、枯葉剤などの除草剤を大量に散布した。
その代表が「エージェント・オレンジ」だった。
森林を枯らし、敵の隠れ場所をなくすことが目的だったが、そこに含まれていたダイオキシンによる環境や健康への影響は、戦後も長く残ることになる。
アメリカは圧倒的な軍事力を持っていた。
しかし、相手はその力と同じ土俵では戦わなかった。
戦争は、アメリカが予想したようには終わらなかった。

1968年1月、ベトナムの旧正月「テト」の時期に、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム各地で一斉に攻撃を開始した。
「テト攻勢」である。
サイゴンをはじめ、多くの都市や軍事拠点が攻撃され、アメリカ軍と南ベトナム軍は激しい戦闘に巻き込まれた。
サイゴンでは、アメリカ大使館の敷地内にまで解放戦線の部隊が侵入した。
軍事的には、北ベトナム・解放戦線側は大きな損害を受け、当初の目的を達成できなかった。
しかし、アメリカ国内での衝撃は大きかった。
「戦争は順調に進んでいる」という政府の説明と、テレビや写真で伝えられる戦場の現実。その落差が、多くの人々に意識されるようになったからだ。
2月1日には、南ベトナムの国家警察長官が、拘束された解放戦線側の人物を路上で射殺する場面が撮影され、世界中に広まった。
テト攻勢によって反戦運動が突然始まったわけではない。
しかし、この攻撃は「アメリカは本当にこの戦争に勝てるのか」という疑問を、アメリカ社会に強く突きつける転機となった。
戦場での勝敗と、戦争を続けることができるかどうか。
その二つは、次第に別の問題になっていった。

1968年、アメリカは大きく揺れていた。
テト攻勢の後、ジョンソン大統領は3月31日、北ベトナムへの爆撃を一部停止すると発表した。そして、自らの再選を求めないことも明らかにした。
国内では、ベトナム戦争への反戦運動が広がっていた。
4月には公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺され、6月にはロバート・ケネディも暗殺される。
そして11月の大統領選挙では、ニクソンが当選した。
一方、ベトナムでは戦争が続いていた。
1968年3月には、ソンミ村(ミライ)でアメリカ軍兵士によって多数の民間人が殺害された。事件が公になるのは翌1969年だった。
1970年、ニクソン政権は南ベトナム軍とともにカンボジアへ軍事侵攻。戦争はさらにインドシナ全体へ広がっていく。
1971年には「ペンタゴン・ペーパーズ」が報道され、歴代政権のベトナム政策をめぐる機密資料が明らかになった。
政府への不信、反戦運動、社会の分断。
ベトナム戦争は、アメリカそのものを大きく揺さぶっていた。
この時代を、レンズ越しに見つめた男がいた――
報道カメラマン・石川文洋の軌跡を描く舞台『撮ること在ること』

ベトナム戦争をめぐる国際情勢も、大きく変化していた。
北ベトナムを支援していた中国とソ連は、ともに社会主義国だった。
しかし1960年代になると、両国は政治路線や安全保障をめぐって対立を深め、1969年には中ソ国境で武力衝突まで起きた。
北ベトナムは、その二つの大国から支援を受けながら戦争を続けていた。
1969年9月、北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンが死去する。
その後も北ベトナムは、中国とソ連の双方との関係を維持しながら戦争を続けたが、ソ連からの軍事支援の重要性は次第に増していった。
一方、アメリカではニクソン大統領が中国との関係改善を進めていた。
1971年、ニクソンは中国訪問を発表。
そして1972年2月、実際に中国を訪問し、毛沢東や周恩来と会談した。
さらにソ連との関係改善も進められ、「デタント」と呼ばれる東西緊張緩和の時代へ向かっていく。
ベトナム戦争は、戦場だけを見ていては理解できない。
その背後では、アメリカ、中国、ソ連という大国同士の外交も大きく動いていた。

1972年3月、北ベトナム軍が大規模な攻勢を開始した。
戦車や砲兵を大量に投入する正規戦で、南ベトナム軍は苦戦する。
これに対してアメリカは、4月から北ベトナムへの爆撃を再開し、5月には大規模な爆撃「ラインバッカー作戦」を開始。ハイフォン港などの機雷封鎖も行った。
さらに12月には「ラインバッカーⅡ作戦」を実施。
B-52などによる大規模な爆撃が行われ、ハノイやハイフォンをはじめ北ベトナムの各地が攻撃を受けた。
しかし、爆撃だけで戦争を終わらせることはできなかった。
一方、パリでは和平交渉が続いていた。
アメリカのキッシンジャーと北ベトナムのレ・ドク・トが秘密交渉を重ね、ようやく合意に近づいていく。
1973年1月23日、両者は協定案を仮調印。
そして1月27日、アメリカ、北ベトナム、南ベトナムなど4者が「パリ和平協定」に正式に署名した。
アメリカ軍の撤退と捕虜の解放が定められ、アメリカのベトナム戦争への直接的な戦闘参加は終わる。
しかし、ベトナムではまだ戦争が終わっていなかった。
和平協定は「戦争の終わり」ではなく、アメリカが戦場から離れるための大きな転換点だったのである。

1973年1月、パリ和平協定が結ばれた。
アメリカ軍はベトナムから撤退し、アメリカ軍捕虜の解放も進められた。
しかし、南北ベトナムの戦争は終わらなかった。
停戦後も両軍の戦闘は続き、南ベトナムでは次第に戦況が悪化していく。
アメリカは南ベトナムへの支援を続けたものの、再び大規模な地上軍を送り込むことはなかった。
アメリカ議会も、インドシナでの新たな軍事行動を制限していた。
そしてアメリカ国内では、ウォーターゲート事件がニクソン政権を揺るがしていた。
1974年8月、ニクソンは大統領を辞任。ジェラルド・フォードが後を継いだ。
そのころ、ベトナムでは北ベトナムが南への攻勢を強めていた。
1975年3月、中央高原で始まった攻撃をきっかけに、南ベトナム軍の防衛線が急速に崩れていく。
北ベトナム軍は南へ進撃を続けた。
そして4月。
北ベトナム軍は、南ベトナムの首都サイゴンへ迫っていた。
長い戦争の最後の瞬間が、近づいていた。

1975年4月。
北ベトナム軍による最終攻勢「ホー・チ・ミン作戦」が進められ、南ベトナム軍は各地で崩壊していった。
サイゴンにも北ベトナム軍が迫る。
アメリカは、現地に残るアメリカ人や関係の深い南ベトナム人を脱出させるため、大規模な避難作戦を開始した。
4月29日から30日にかけて行われた「フリークエント・ウィンド作戦」では、ヘリコプターによってアメリカ人約1,400人、ベトナム人など約5,600人、合わせて約7,000人が避難した。
空母の甲板には次々とヘリコプターが着艦し、場所を確保するため、南ベトナム軍のヘリコプターが海へ投棄される場面もあった。
そして4月30日。
午前、数日前に大統領に就任したばかりのズオン・バン・ミンが、ラジオで南ベトナム軍に戦闘の停止を呼びかける。
正午前、北ベトナム軍の戦車が大統領官邸(独立宮殿)の門を突破。
ミンは無条件降伏を表明し、サイゴンは陥落した。
長く続いたベトナム戦争は、ここで大きな終わりを迎えた。
しかし、戦争が終わったからといって、すべてが平和になったわけではない。
1976年7月2日、南北ベトナムは正式に統一され、「ベトナム社会主義共和国」が成立する。
その後、旧南ベトナム政府関係者らへの「再教育」が行われ、多くの人々が国外へ脱出した。やがて「ボートピープル」と呼ばれる難民の流出が大きな国際問題となっていく。
1945年の独立宣言から30年。
フランスとの戦争、南北分断、アメリカの介入、そして長い戦争。
ベトナム戦争は終わった。
しかし、戦争が残した傷は、その後も長くベトナムと世界に残り続けることになる。
――ベトナム戦争・終
作・古川健(劇団チョコレートケーキ) 演出・鵜山仁
2026年11月19日(木)〜29日(日) 東池袋・あうるすぽっと
※地図上の位置・範囲はおおよそです。