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創立85周年企画 劇団文化座公演
作・古川健(劇団チョコレートケーキ) 演出・鵜山仁
2026年11月19日(木)~29日(日)
あうるすぽっと (東池袋)
レンズの先に、
人間がいた
文化座創立85周年の第一弾企画は劇団チョコレートケーキ・古川健氏による書き下ろし!
ベトナム、カンボジア、アフガニスタン……。
戦場の最前線から人間の本質を見つめ続けた、報道カメラマン・石川文洋。
知的好奇心と共に生きた一人の男の軌跡を、いま舞台に。
追悼
本公演の企画進行中、2026年8月に石川文洋さんがご逝去されました。
生前のご功績を偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げますとともに、
本作を追悼公演としてお届けいたします。
二〇二六年、諏訪湖を望むのどかな街。冤罪事件に巻き込まれ、絶望の淵に突き落とされた男の前に、手を差し伸べる一人の老人が現れた。見返りも求めず、ただ人道的に寄り添い続ける老人。
「この人はなぜ、ここまで他人のために生きられるのか……」
老人が静かに語り始めた過去──それは、ベトナム、カンボジア、ボスニア、アフガニスタンと、世界の最前線で命を懸けてきた伝説の報道カメラマンの姿だった。数々の凄惨な戦地を生き抜き、狂気と混沌の中に「人間社会の真実」を見てきた老人は、まさに激動の現代史を体現する生き証人だった。なぜ、世界を切り取ってきた男が、今、日本の小さな街で孤独な男を救うのか?
老人の回想と語り、若き日の自分との対話を通して、私たちが生きる「今」、そして「人間が目指すべき未来の姿」が鮮烈に浮かびあがる。静かな街の対話から世界へとつながる、魂を揺さぶる人間ドラマが今ここに!
公演期間中は劇場ロビーにて、石川文洋ミニ写真展を開催!
22日(日)・25日(水)公演終了後、アフタートーク開催!
【22日(日) 鵜山仁・古川健 / 25日(水) 佐々木愛・ゲスト】
30秒でわかる『撮ること在ること』
| 日にち | 開演 | |
|---|---|---|
| 11/19(木) | 18:30 | |
| 11/20(金) | 18:30 | |
| 11/21(土) | 14:00 | |
| 11/22(日) | 14:00 | ★アフタートーク |
| 11/23(月) | 14:00 | |
| 11/24(火) | 貸切 | |
| 11/25(水) | 14:00 | ★アフタートーク |
| 11/26(木) | 14:00 | |
| 11/27(金) | 14:00 | |
| 11/28(土) | 14:00 | |
| 11/29(日) | 14:00 |
※開場は開演時間の30分前
★…公演終了後、アフタートーク【22日(日) 鵜山仁・古川健 / 25日(水) 佐々木愛・ゲスト】
若い方に
お電話で
(劇団へ直接お電話ください)
そのほかの席Uシート 5,000円(前方端、一部見切れの可能性)……お電話で
前売り開始 9月16日
※チケットの発送・配席は前売り開始(9/16)以降となります。
…一般・友の会・サポーターズのチケットがお申し込み可能です。
…チケット郵送(郵便局から振込用紙でのお支払い※お振込手数料はお客様負担となります)または、当日受付でのチケットお渡し・お支払いとなります。
Uシート・30才以下・高校生以下・養成所割引ご希望の方は劇団に直接お電話ください。
WEBで申し込む →…アプリ会員様限定の割引チケット(平日のみ)が電子チケットでご購入いただけます。
…クレジットカードでのお支払いとなります。
《インストール》(Confetti[カンフェティ]に移動します)
カンフェティチケットセンター 050-3092-0051 (平日10時~17時)
…一般前売、カンフェティ席(カンフェティのみの割引席)のチケットを取り扱っています。
…ファミリーマート発券または電子チケットとなります。
ファミリーマートでのお支払いまたはクレジットカードでのお支払いとなります。
(発券手数料はお客様負担となります)
カンフェティへ →劇団文化座
(日曜・祝日を除く10時~18時)
03-3828-2216あうるすぽっと(東池袋)
●東京メトロ有楽町線「東池袋駅」6出口・7出口直結
●JR他各線「池袋駅」(東口)よりグリーン大通り直進徒歩10分
●都電荒川線「東池袋四丁目」徒歩2分
第二次世界大戦が終わると、世界の勢力関係は大きく変わった。戦争をともに戦ったアメリカとソ連は、やがて異なる政治体制と価値観を掲げて対立するようになる。1940年代後半にはその対立は急速に深まり、世界は「冷戦」と呼ばれる時代へと入っていった。その大きな変化は、遠く離れた東南アジアにも及んでいた。
当時のベトナムは、現在のラオス、カンボジアとともに「フランス領インドシナ」を構成していた。フランスによる植民地支配のもと、ベトナムにはフランスの行政機構が置かれていた。1940年、フランスがドイツに降伏すると、日本軍が北部インドシナへ進駐し、翌1941年には南部にも進駐した。日本軍が進駐した後も、しばらくはフランスの植民地行政が存続し、日本とフランスによる複雑な二重支配の状態が続いた。
その状況が大きく変わったのは、1945年3月だった。日本軍はインドシナのフランス軍を武装解除し、フランスによる植民地支配は事実上終わった。その一方で、ベトナムでは独立を求める運動が勢力を拡大していた。1941年、ホー・チ・ミンらによって「ベトナム独立同盟」、通称ベトミンが結成された。ベトミンは、共産主義者だけではなく、民族主義者なども結集した独立運動の統一戦線だった。
そして1945年、日本が敗戦すると、ベトナムの情勢は一気に動き始める。ベトミンは各地で権力を掌握し、いわゆる「八月革命」を成功させた。1945年9月2日、ホー・チ・ミンはハノイで「ベトナム民主共和国」の独立を宣言する。長く続いたフランスの植民地支配から、ベトナムは自らの手で独立国家をつくろうとしたのである。
しかし、その独立は簡単には認められなかった。日本の敗戦後、フランスは再びインドシナへの支配を取り戻そうとした。ベトナム側は独立を譲らず、両者の対立は次第に武力衝突へと発展していく。1946年末、フランスとベトミンの戦闘は本格化し、第一次インドシナ戦争が始まった。ベトナムの独立をめぐる戦いは、ここから新たな段階へ入っていくことになる。
第一次インドシナ戦争は、やがてベトナム国内だけの戦争ではなくなっていった。1949年、中国では共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国が成立した。翌1950年、中国とソ連はホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国を承認する。一方、フランスは1949年、フランス連合の一員となる「ベトナム国」を成立させ、バオ・ダイを国家元首とした。アメリカとイギリスは1950年、このベトナム国を承認した。こうしてベトナムをめぐる戦争は、フランスとベトミンとの独立戦争であると同時に、冷戦下の東西対立とも結びついていった。
アメリカはフランスへの軍事・経済援助を拡大し、フランスの戦争を支えるようになる。一方、ベトミン側には中国やソ連などからの支援が入った。ベトミンは農村部を基盤としてゲリラ戦を展開し、次第に勢力を拡大していった。そして正規軍としての戦力も整え、フランス軍との大規模な戦闘を行うようになる。その戦争の行方を決定づけたのが、1954年のディエンビエンフーの戦いだった。
ベトミン軍はフランス軍の拠点ディエンビエンフーを包囲し、激しい攻撃を続けた。フランス軍は最終的に降伏し、フランスはインドシナでの戦争を続けることが困難になった。その後、スイスのジュネーヴで和平交渉が行われる。1954年7月、ジュネーヴ協定が成立し、第一次インドシナ戦争は終結した。
ベトナムには北緯17度線付近を基準とする暫定的な軍事境界線が設けられ、ベトミン軍は北側、フランス連合軍は南側へ再編成された。ただし、この17度線はベトナムを恒久的に二つの国家へ分割する国境ではなかった。ジュネーヴ会議の最終宣言では、1956年7月にベトナム全土で総選挙を行い、その結果に基づいて統一を実現することが想定されていた。また、その前年の7月20日以降には、選挙について当事者間で協議を行うことも予定されていた。
しかし、この選挙は実現しなかった。1955年、南ベトナムではゴ・ディン・ジエムが政権を確立していく。ジエム政権はアメリカから強い支援を受け、共産主義勢力の拡大を阻止しようとした。一方、北ベトナムではホー・チ・ミンを指導者とする政府が、ベトナムの統一を目指していた。南北統一をめぐる最大の問題となったのが、1956年に予定されていた総選挙だった。
ジエム政権は、自由で公正な選挙を実施できる条件が整っていないとして、選挙の実施に同意しなかった。また、南ベトナムはジュネーヴ会議の最終宣言そのものを受け入れていなかった。結果として、予定されていた全国選挙による南北統一は実現しなかった。
その背景には、冷戦という国際情勢もあった。1954年、アメリカのアイゼンハワー大統領は、一つの国が共産主義化すれば、その影響が周辺の国々にも連鎖するという「ドミノ理論」を示していた。東欧での共産化や1949年の中国革命などに対するアメリカの危機感のあらわれだった。
ベトナムでは、フランスの植民地支配からの独立をめぐる戦争が終わった。しかし、今度は「一つの国として統一するのか、それとも南北に分かれたまま進むのか」という新たな対立が残された。そして、この対立はやがてベトナム国内だけの問題ではなくなっていく。アメリカ、中国、ソ連などの大国が深く関与し、ベトナムは冷戦の最前線の一つとなった。
第一次インドシナ戦争の終結は、長い戦争の終わりではなかった。それは、次の戦争へ向かう新たな時代の始まりでもあった。
1954年のジュネーヴ協定によって第一次インドシナ戦争が終わると、ベトナムは北と南に分かれた状態となった。南側では、アメリカ合衆国の強力な支援を受けたゴ・ディン・ジエム政権が勢力を固めていく。北ベトナム側は、この政権を「アメリカの傀儡政権」と批判した。一方、南ベトナムは、北ベトナムとは異なり、憲法を制定し、国会を設け、選挙を行う共和国制度を整えていた。しかし、ジエム政権は次第に権威主義的な性格を強め、政治的な反対勢力を抑え込むなど、国内にはさまざまな不満が蓄積していった。
1954年の分断後、北から南へは80万人を超える人々が移住した。その背景には、共産主義体制への不安だけでなく、宗教的・政治的な理由や経済的事情など、さまざまな要因があった。この大規模な人口移動には、フランスやアメリカも輸送や物資の面で関与した。アメリカの外交文書にも、1954~55年に北から南へ移動した難民が約80万人に達したことが記録されている。
しかし、南ベトナムの政情は決して安定していたわけではなかった。行政の腐敗や政治的対立、農村部の社会問題などが存在し、ジエム政権への反発も次第に強まっていった。特に1963年には、仏教徒と政府との対立が全国的な政治問題へと発展する。いわゆる「仏教危機」である。アメリカ側の情報分析でも、この問題はジエム政権に対する以前からの不満を一気に表面化させ、政権の安定性を揺るがす重大な危機になったと分析されていた。
一方、北ベトナムでは、1956年に予定されていた全国選挙が実施されないなか、1950年代後半から南部での政治・武力闘争を通じてベトナム統一を実現する方針が強まっていった。1959年には、ハノイが南部での「民族解放」を掲げた武力闘争を本格化させ、人員や物資を南へ送り込むための体制を整えていく。
そして1960年12月20日、南ベトナムで「南ベトナム解放民族戦線」が結成された。これは、元ベトミン活動家を含むさまざまな反政府勢力を結集した統一戦線で、民族主義者なども参加していたが、組織の中では共産主義勢力が大きな影響力を持っていた。北ベトナムは、この組織を通じて南部での政治・軍事活動を支援していくことになる。
南ベトナム解放民族戦線は、アメリカ側や南ベトナム政府からは一般に「ベトコン」と呼ばれた。「ベトコン」は、ベトナム語の「Việt Nam Cộng Sản(ベトナム共産主義者)」を縮めた呼称とされ、正式な組織名称ではない。北ベトナムや解放民族戦線側は、基本的に「南ベトナム解放民族戦線」などの名称を用いた。
北ベトナムから政治的・軍事的支援を受けた南ベトナム解放民族戦線は、南部でゲリラ戦を拡大していった。北ベトナムも南部への人員や物資を送り込むため、1959年から「ホーチミン・ルート」と呼ばれる補給路網の整備を本格化させた。このルートは北ベトナムからラオスなどを経由して南ベトナムへつながる複雑な輸送網へと発展していく。
こうして南ベトナム国内の武力闘争は次第に激しさを増していった。北ベトナムからの支援と南部での反政府活動が結びつき、ベトナムの対立は、もはや1954年の分断によって固定された単純な南北対立では説明できないほど複雑なものになっていた。
そして、そこにアメリカの軍事的関与が急速に拡大していく。
「ベトナム戦争」がいつ始まったのかについては、現在でも一つの定まった基準があるわけではない。アメリカ側の軍事史では、1955年11月1日を一つの基準として扱うことがある。この日、インドシナに置かれていたアメリカの軍事援助顧問団、MAAGが再編され、「MAAG Vietnam」となった。一方で、1950年代後半に南ベトナムで武装闘争が拡大した時期や、1959年に北ベトナムが南部での武力闘争を本格化させた時期を、戦争の始まりとする見方もある。
MAAGは、南ベトナム軍の訓練や装備、軍事組織の整備などを支援するアメリカ軍の顧問組織だった。1950年代後半からアメリカの軍事関与は徐々に拡大し、1962年には軍事援助だけでなく、アメリカ軍が作戦面でもより深く関与する体制が整えられていく。1962年2月には、軍事援助顧問団とは別に、より広範な作戦支援を担う軍事援助司令部、MACVが設置された。
1962年には、ケネディ政権の承認のもとで、南ベトナムでアメリカによる枯葉剤などの除草剤散布も始まった。森林の葉を枯らして視界を確保し、ベトコンの潜伏や移動を把握しやすくすることなどが目的とされた。アメリカ政府の当時の文書には、森林やマングローブなどに対する散布によって視界を改善し、待ち伏せを受ける危険を減らすことが目的として記されている。
また、南ベトナムではナパームなどの航空兵器も使用され、戦場は次第に拡大していった。アメリカの役割は、単なる軍事顧問や装備・訓練の支援から、南ベトナム軍の作戦を支え、戦争そのものに深く関与する段階へと変化していく。
そして1963年、南ベトナムは大きな政治的転換点を迎える。仏教危機によってジエム政権への国内外の批判が強まり、政権内部でも対立が深まっていた。同年11月、ジエム政権は軍部によるクーデターによって崩壊し、ジエム自身も命を落とした。
その約3週間後の11月22日、アメリカではジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され、副大統領だったリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任する。
ベトナムでは、ジエム政権の崩壊によって政治的な不安定さがさらに増し、アメリカの関与も新たな段階へと向かっていった。そして1964年から1965年にかけて、アメリカは南ベトナムへの軍事介入をさらに拡大していく。
ベトナムの戦争は、もはやベトナム人同士の対立だけではなかった。北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム解放民族戦線、そしてアメリカをはじめとする各国が複雑に絡み合う、大規模な国際戦争へと姿を変えようとしていた。
1964年の時点で、南ベトナムでは政府軍と南ベトナム解放民族戦線との武力闘争が激しくなっていた。しかし、アメリカの関与はすでに軍事顧問の派遣にとどまらず、南ベトナム軍への大規模な支援へと拡大していた。そこへ起きたのが、1964年8月のトンキン湾事件である。
8月2日、アメリカ海軍の駆逐艦マドックスが、トンキン湾で北ベトナムの魚雷艇から攻撃を受けた。さらに8月4日にも攻撃を受けたと報告されたが、4日の攻撃については直後から疑問が生じ、後の調査によって実際には攻撃が起きていなかった可能性が極めて高いことが明らかになった。2日の事件についても、北ベトナム側がどのような認識で攻撃したのかを含め真相が不明である。
ジョンソン大統領は事件を受けて議会に対応を求め、8月7日、議会は「トンキン湾決議」を可決した。この決議は大統領に東南アジアでアメリカ軍を防衛するための広範な権限を与えるもので、その後の軍事的エスカレーションの重要な根拠となった。
1965年2月の報復爆撃に続き、3月2日、北ベトナムへの継続的な大規模爆撃作戦「ローリング・サンダー」が始まった。そして3月8日、3,500人のアメリカ海兵隊員がダナンに上陸し、アメリカ軍の正規戦闘部隊が本格的に投入される。アメリカ軍の兵力はその後急速に増え、1965年末には約18万4,000人に達した。
アメリカだけでなく、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンなども南ベトナム側に部隊を送った。このうち韓国以外の4か国は反共軍事同盟の東南アジア条約機構(SEATO)の加盟国だったが、SEATOとして派兵したわけではなく、それぞれの政府が個別に派兵を決定した。なかでも韓国は、1965年以降、大規模な戦力をベトナムに送り、アメリカ以外では最大規模の兵力を投入した国となった。
一方、北ベトナム側にも中国とソ連から大量の軍事援助が入った。特に1965年には、ソ連が地対空ミサイル、対空砲、航空機、レーダーなどの装備を大量に供給し、中国も小火器や弾薬だけでなく、輸送・防空など幅広い分野で支援を行った。北ベトナム軍はもともと正規軍としての戦力を持っており、ソ連と中国からの援助によって、その軍事力はさらに強化されていった。
こうして1965年、ベトナムで続いていた武力闘争は、アメリカ軍とその同盟国の大規模な軍事介入、そして中国・ソ連による北ベトナムへの軍事援助が加わることで、国際的な戦争へと大きく姿を変えていった。
圧倒的な軍事力を持つアメリカと、人口・経済力ともに小さなベトナムとの戦いは、しばしば「象と蟻の戦い」と表現された。しかし、アメリカがその圧倒的な軍事力を投入しても、戦争は短期間では終わらなかった。
北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線は、正面からアメリカ軍と同じ方法で戦うのではなく、長期戦を前提とした戦略をとった。南ベトナムの農村部に活動基盤を置き、住民の動員や政治工作と軍事行動を組み合わせながら、ゲリラ戦を展開したのである。さらに、ラオスやカンボジアを通過する「ホーチミン・ルート」と呼ばれる複雑な輸送網を利用して、人員や物資を南部へ送り込んだ。
アメリカ軍は、圧倒的な航空戦力と火力によって敵の拠点や補給路を破壊し、戦争の主導権を握ろうとした。しかし、森林や山岳地帯に分散する部隊を発見し、撃破することは容易ではなかった。そこでアメリカ軍は大規模な航空爆撃に加え、森林を枯らして敵の隠れ場所を減らすための除草剤散布や、ナパーム弾を投下した。
1962年から1971年にかけて実施された「ランチハンド作戦」では、南ベトナムを中心に大量の軍事用除草剤が散布された。なかでもエージェント・オレンジが広く使用され、その一部に含まれていたダイオキシンによる環境・健康への影響は、戦後も長く問題となっている。アメリカ退役軍人省によれば、この期間に1,900万ガロンを超える各種除草剤が散布された。
アメリカ軍の圧倒的な火力は多くの地域を破壊したが、それによって戦争そのものを終わらせることはできなかった。戦場に明確な前線が存在せず、敵を軍服だけで識別することも難しい状況のなかで、アメリカ軍は次第に「軍事力で勝つこと」と「戦争そのものに勝つこと」の間に大きな隔たりがあることを経験していく。
1968年1月、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、ベトナムの旧正月「テト」の時期に合わせて、南ベトナム全土で大規模な攻撃を開始した。攻撃は1月30日から本格化し、サイゴンを含む多数の都市や軍事拠点が同時に攻撃を受けた。これが「テト攻勢」である。北ベトナム側は、南ベトナム政府とその軍事力を大きく揺さぶり、民衆蜂起を引き起こすことなどを狙っていたとされる。
攻撃の過程では、サイゴンのアメリカ大使館敷地内にも解放戦線の部隊が侵入した。大使館そのものを長時間占拠したわけではないが、その映像はアメリカ国内に大きな衝撃を与えた。アメリカ軍と南ベトナム軍は態勢を立て直して反撃し、解放戦線側は甚大な損害を受けた。軍事的には、北ベトナム・解放戦線側が当初の目的を達成できなかったことは明らかだった。
しかし、テト攻勢がもたらした影響は戦場だけにとどまらなかった。それまでアメリカ政府が強調していた「戦争は順調に進んでいる」という説明と、テレビを通じて伝えられた戦場の現実との間に、大きな隔たりがあることがアメリカ社会に意識されるようになったからである。
テト攻勢の最中には、南ベトナムの国家警察長官グエン・ゴク・ロアンが、拘束された南ベトナム解放民族戦線側のグエン・ヴァン・レムを路上で射殺する場面が撮影された。この写真と映像は世界的に知られることとなり、戦争の残酷さを象徴する映像の一つとなった。
アメリカ国内ではそれ以前から戦争への疑問が広がっていたが、テト攻勢は、政府発表と戦場の実態に対する不信をさらに強める大きな転機となった。急速に社会に浸透していったテレビや写真などの報道は、遠く離れたベトナムの戦場をアメリカの家庭に直接届ける役割を果たした。このためベトナム戦争は後に「リビングルーム・ウォー」とも呼ばれるようになった。ただし、研究上は「テレビ報道が単純に反戦世論を生み出した」とする説明には慎重な見方もある。
戦場では、アメリカ軍が敵の死者数を「ボディ・カウント」として戦果の指標に用いたことも、後に大きな問題となった。敵の死者数を積み上げることで戦争の進展を示そうとする方法は、戦争の複雑な現実を数字に置き換えるものであり、政府発表への不信をさらに深める要因の一つとなった。
1968年はアメリカ大統領選挙の年でもあった。テト攻勢によって戦争の先行きに対する疑問が強まるなか、ジョンソン大統領は3月31日のテレビ演説で、北ベトナムへの爆撃を一部停止すると発表し、同時に自らの再選を求めないことを明らかにした。これはアメリカ政治に大きな衝撃を与えた。
さらに1968年4月には公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺され、6月には大統領候補として注目されていたロバート・ケネディも暗殺された。国内ではベトナム戦争への反戦運動が激しくなり、各地の大学で学生運動や抗議行動が広がっていた。
ジョンソンは10月31日、北ベトナムへの爆撃を全面的に停止すると発表し、パリでの和平交渉への道を開いた。翌月の大統領選挙ではリチャード・ニクソンが勝利し、1969年1月に大統領に就任する。ニクソン政権はアメリカ軍の地上部隊を段階的に撤退させながら、南ベトナム軍の戦力を増強する政策を進めた。
しかし、戦争そのものが終わったわけではない。1969年には、南ベトナムのソンミ村で1968年3月に起きたアメリカ軍による民間人殺害事件が明るみに出た。犠牲者数については調査によって異なる数字が示されているが、多数の非武装の民間人が殺害されたことが確認され、アメリカ社会に大きな衝撃を与えた。
さらに1970年には、ニクソン政権が南ベトナム軍とともにカンボジアへ軍事侵攻を行った。戦争はベトナム国内だけでなく、ラオスやカンボジアにも広がっていった。
1971年には、ニューヨーク・タイムズなどが国防総省の機密研究「ペンタゴン・ペーパーズ」を報道した。そこには1945年から1967年までのアメリカのベトナム政策に関する膨大な資料が含まれており、歴代政権が国民に説明してきた内容と、内部で検討されていた政策との違いが明らかになった。
戦争をめぐるアメリカ国内の分断は、こうしてさらに深まっていった。
ベトナム戦争において、ソビエト連邦と中華人民共和国は北ベトナムを支援していたものの、両国間では関係が悪化していた。政治路線の違いや領土論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で文化大革命が先鋭化した1960年代末には、長い国境線をはさんで両国の大軍が対峙する事態になった。1969年3月には珍宝島(ダマンスキー島)で両軍が衝突し、その後も国境各地で衝突が起こるなど、ソ連が中国への核攻撃の可能性まで検討したとされるほどの緊張状態に陥った。このような状況を受けて、ブレジネフ書記長率いるソ連は中華人民共和国を牽制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論んだ。ニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、米ソ間の関係は緊張緩和(デタント)の時代に入る。1972年5月にはニクソンがモスクワを訪問し、米ソ首脳会談が行われた。
北ベトナム国内でも、戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの事実上北ベトナムの精神的指導者であったホー・チ・ミンが1969年9月2日、心臓の病により79歳で死去した。南北ベトナムの統一を説いていた指導者の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果にもなった。北ベトナム指導部は、その後も中国とソ連の双方との関係を保ちながら戦争を続けたが、中ソ対立が深まるなかで、軍事援助におけるソ連の比重は次第に大きくなっていった。
1971年7月にニクソン大統領は中華人民共和国を訪問する意向を発表し、翌1972年2月21日にニクソン大統領の中国訪問は行われ、毛沢東主席および周恩来首相と直接対話を始めた。これに先立ち、前年7月のキッシンジャー大統領補佐官による極秘訪中などを通じて、両国は関係改善に向けた交渉を重ねていた。対ソ連外交での中国カードという外交手段を持ち、ニクソン政権が望む「名誉ある撤退」と、今後の東南アジアへの米国の影響力を確保することを目指していたとされる。中華人民共和国としても、ソ連と友好的な関係を保ち始めた米国と接近することはソ連を牽制すると同時に、文化大革命以後停滞していた、中国外交の主導権を取り戻すという意味があった。
1972年3月、北ベトナム軍は大規模な攻勢を開始した。いわゆる「イースター攻勢」である。北ベトナム軍は戦車や砲兵を含む正規軍を大量に投入し、南ベトナム軍に対して攻撃を行った。
これに対してニクソン政権は、4月から北ベトナムへの爆撃を再開し、5月からは大規模な爆撃作戦「ラインバッカー作戦」を実施した。ハイフォン港などへの機雷封鎖も行われた。さらに同年12月、パリ和平交渉が行き詰まると、アメリカは「ラインバッカーⅡ作戦」を開始する。12月18日から29日にかけて、B-52などによる大規模な爆撃がハノイやハイフォン周辺に集中して行われ、交通・通信・電力などの施設が大きな被害を受けた。クリスマスの時期の大規模な爆撃は国際社会から強い批判を浴びたが、北ベトナムが交渉の再開に応じたことで、爆撃は12月29日に停止された。
北ベトナムは戦争を継続する能力を維持していたものの、大きな被害が生じていた。時を同じくして行われていた米中の接近を北ベトナムは「自国に対する中国の裏切り行為」と受け止めていた。ニクソンの訪中から約3か月後に始まった北爆の拡大と港湾の機雷封鎖に対しても、中国の反発は抑えたものにとどまった。こうした米中の接近は、北ベトナムと中国のあいだに不信を残し、のちの両国関係の悪化につながっていく。そして和平交渉は、軍事的圧力だけではなく、米中・米ソ関係や南北ベトナムそれぞれの政治的事情を含む複雑な交渉の結果として進んでいった。
1972年秋から和平交渉は大きく進展し、ヘンリー・キッシンジャーと北ベトナムのレ・ドク・トの間で秘密交渉が行われた。しかし南ベトナムのグエン・バン・チュー政権が合意案に難色を示すなど、最終合意までにはさらに交渉が必要となった。
そして1973年1月23日、キッシンジャーとレ・ドク・トの間で協定案が仮調印され、4日後の1月27日、アメリカ、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム共和国臨時革命政府の4者が「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定」、いわゆるパリ和平協定に正式に署名した。これによってアメリカ軍の撤退と捕虜の解放などが定められ、アメリカのベトナムでの直接的な戦闘参加は終わりを迎えることになる。
パリ和平協定によって、アメリカ軍はベトナムから撤退し、アメリカ軍捕虜の解放も進められた。しかし、和平協定によって戦争そのものが終わったわけではなかった。北ベトナムと南ベトナムの双方が協定の履行をめぐって対立し、南部では戦闘が再び激しくなっていった。
アメリカは南ベトナムへの軍事支援を続けたものの、国内では再び大規模な地上軍を派遣することへの支持を失っていた。1973年には、議会がインドシナでの新たな軍事行動を禁じる法律を成立させ、南ベトナムへの援助も次第に削減されていった。ニクソン大統領は南ベトナムへの支援を続ける意思を示していたが、ウォーターゲート事件によって政権は大きく揺らいでいた。さらにオイルショック後の景気停滞など、国内の問題に政府や国民の関心は移っていき、停戦後も続く北ベトナム軍の攻勢に対して、アメリカが有効な手を打つことはなかった。1974年8月、ニクソンは大統領を辞任し、ジェラルド・フォードが後を継いだ。
1974年1月には、南シナ海の西沙諸島をめぐって中国と南ベトナムの海軍が衝突する。中国側が島々を制圧したこの戦闘は、ベトナム戦争そのものとは別の領土問題でありながら、現在にも続く南シナ海の領有権問題につながる重要な出来事となった。
1975年になると、北ベトナムは南ベトナムの軍事的・政治的状況を見極めながら、大規模な攻勢を開始する。3月、中央高原での攻撃をきっかけに南ベトナム軍の防衛線は急速に崩れ、北ベトナム軍は南へ進撃していった。アメリカ政府は再び大規模な地上軍を派遣することを選ばず、南ベトナムへの軍事介入を再開することはなかった。
そして4月、北ベトナム軍はサイゴンへ迫る。
1975年4月、北ベトナム軍は「ホー・チ・ミン作戦」と呼ばれる最終攻勢を進めた。南ベトナム軍は各地で崩壊し、サイゴンにも北ベトナム軍が迫っていた。
アメリカ政府は、南ベトナムに残るアメリカ人や、アメリカと関係の深かった南ベトナム人を国外へ退避させる作戦を開始した。固定翼機による大規模な避難に続き、4月29日から30日にかけて「フリークエント・ウィンド作戦」が実施された。アメリカ海兵隊や空軍、海軍のヘリコプターによって、アメリカ人だけでなく多数のベトナム人や第三国の人々がサイゴンから脱出した。2日間の作戦では、アメリカ人1,373人、ベトナム人など5,595人、合わせて約7,000人がヘリコプターによって避難したとアメリカ側の記録に残されている。
避難の現場は混乱を極めた。人々が次々とヘリコプターに乗り込み、空母の甲板には着艦したヘリコプターがひしめいた。後続機の着艦場所を確保するため、南ベトナム軍のヘリコプターが海へ投棄される場面もあった。サイゴンのアメリカ大使館から最後の海兵隊員が退避したのは4月30日の朝だった。
そのころ、サイゴンでは南ベトナム政府が最後の時を迎えていた。4月30日の午前、4月28日に大統領に就任したばかりのズオン・バン・ミンは、ラジオで南ベトナム軍に戦闘の停止を呼びかけた。正午前、北ベトナム軍の戦車が大統領官邸(独立宮殿)の門を突破し、午後、ミンは無条件降伏を表明した。サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は消滅した。
長い戦争は、こうして終わった。
しかし、それはすぐに平穏な統一国家が生まれたことを意味してはいなかった。1976年7月2日、南北ベトナムは正式に統一され、「ベトナム社会主義共和国」が成立した。その後、旧南ベトナム政府関係者などを対象とする「再教育」が行われ、社会主義化も進められていく。また、多くの人々が国外への脱出を試み、後に「ボートピープル」と呼ばれる大規模な難民流出へとつながった。
フランスの植民地支配からの独立を求めた戦いは、第一次インドシナ戦争へと発展し、さらに冷戦の中でアメリカ、中国、ソ連を巻き込む長い戦争へと変わっていった。そして1975年、サイゴン陥落によってその戦争は終わった。
ベトナムの歴史にとって、1975年は一つの終着点だった。
しかし同時に、それは戦争によって深く傷ついた社会が、新しい国家をつくり直していく長い時代の始まりでもあった。
ベトナム戦争の話でよく耳にする「ベトコン」という言葉。実は、特定の組織の正式な名前ではない。
「ベトコン(Viet Cong)」は、「ベトナムの共産主義者」を意味するベトナム語を縮めた呼び名だ。1956年ごろから、南ベトナム政府の統制下にあった新聞で使われるようになったとされる。政府に反対する人々を、共産党員かどうかに関係なく、まとめて「共産主義者」と呼ぶ意味合いがあった。呼ばれた側が自分たちで名乗っていた名前ではない。
1960年、南ベトナムで政府に反対する勢力が集まり、「南ベトナム解放民族戦線」(解放戦線)が結成された。解放戦線は政治の組織で、住民への呼びかけや組織づくり、情報集め、物資の調達などを担った。その下には武装した部隊があり、大きな部隊もあれば、ふだんは畑で働きながら、必要なときに銃を取る村のゲリラもいた。
参加者の全員が共産党員だったわけではないが、運動の中心には共産党の組織があり、北ベトナムの共産党指導部が強い影響力を持っていた。一方で、北から送り込まれた北ベトナムの正規軍は、解放戦線とは別の軍隊だ。協力し合ってはいたが、本来「ベトコン」とは区別される。
「ベトコン」のイメージとして知られる黒いシャツとズボン、いわゆる「黒いパジャマ」は、南ベトナムの農民がふだん着ていた服でもあった。村には、銃を持って戦う人、情報を伝える人、食べ物や寝る場所を提供する人、そしてどちらにも加わらない人が一緒に暮らしていた。協力した理由も、信念からの人もいれば、周りの圧力や脅しでやむなく、という人もいた。外から見て、誰が「敵」なのかを見分けるのはとても難しかった。
そのため、「ベトコン」という言葉が指す範囲は、場面によって広がっていった。
アメリカ軍は戦果を「倒した敵の数」で測ったため、殺されたベトナム人が「ベトコン」として数えられることがあった。1968年のソンミ村(ミライ)虐殺では、殺された多くの非武装の村人が、当初の報告では「敵の戦死者」とされていた。武器を持たない協力者を探し出す作戦でも、密告や個人的な恨みなどから、無関係の住民が捕らえられたり殺されたりした例があったと指摘されている。
日本でも1960年代、報道を通じて「ベトコン」という言葉が広く知られるようになった。「昼は農民、夜はゲリラ」というイメージを伝えたのは、戦場となった村に入った日本の記者や写真家たちだ。作家の開高健、写真家の岡村昭彦、そして本作で描かれる報道カメラマン・石川文洋も、現地で取材を続けた。現地を取材した人たちの間では、「ベトコン」が相手側のつけた呼び名であることは知られていて、「解放戦線」と呼ぶ人も少なくなかった。
「ベトコン」という言葉に出会ったら、「誰が、誰のことを、そう呼んでいるのか」を考えてみてほしい。
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