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全国公演
作・杉浦久幸 演出・鵜山仁
戦後の沖縄復興と日本復帰に生涯をかけ闘い抜いた、瀬長亀次郎と阿波根昌鴻の不屈の魂がいま再び蘇る──
《― 沖縄の人達は、なぜ座るのか? ―》
企画・出演 佐々木愛
私が劇映画『沖縄』に出演するために、二度の渡航拒否を受けてから、もう五十年近くの歳月が流れました。三度目に申請に行った時の都庁の窓口の方の、私と後ろに並ぶ沖縄出身の学生さん達に対する対応は、今で言えばパワーハラスメントそのものでした。戦争に敗けたからとはいえ、沖縄の方々が戦勝国アメリカと祖国日本にいかに不自由で理不尽な生活を強いられているか、その一端を肌で感じた忘れられない思い出です。
それ以後、沖縄は日本に復帰し、往来は自由になったとはいえ、限りない不自由を押しつけられている現状は昔と少しの変わりもありません。しかし、私にはこの不自由さと斗う沖縄の方々の中に、私達おおかたの日本人が失いかけている、日本という国の希望と誇りを強く感じる事があるのです。
そして、蘇ったのが阿波根昌鴻と瀬長亀次郎という突出した二人の人物でした。この二人と出逢っていただけたら、沖縄の方々が何故へこたれずに座り続けるのか? 何を求めていられるのか? ほんの少しわかっていただける気がするのです。
第二次世界大戦の終戦から10年。沖縄北部の離島・伊江島は米軍の爆撃演習地をめぐる土地闘争に揺れていた。
銃とブルドーザーで家も土地も奪われた農民たちは、阿波根昌鴻(アハゴン ショウコウ)を中心に「陳情規定」を作り、座り込みを主とした静かなる抗議行動をしている。反米的にならない、怒ったり悪口を言わない、話は必ず座ってする、大声を出さない、耳より上に手を上げない等を誓約した「陳情規定」に則りながらも、今は米軍爆撃演習地となってしまった自分たちの土地を耕す“柵内農耕”という行動にでるのだった。
一方、沖縄本島では、人民党書記長として圧倒的な支持を島民から受けていた瀬長亀次郎(セナガ カメジロウ)が沖縄群島知事選挙に立候補するも、米軍と沖縄民政府の圧力により落選し、沖縄から退去命令を受けた人民党員を匿ったとして宮古刑務所に収監されていたが、やがて釈放される。
伊江島の抗議行動のやり方に危惧を感じ始めていた亀次郎は昌鴻に「伊江島だけでなく沖縄人すべての問題として考えねばならない。一切の私利私欲を捨て、島ぐるみで団結すべき時だ。」と語った。
昌鴻は新たな抗議行動を模索し、亀次郎は本土復帰を掲げて那覇市長選挙にうって出るのだが……。
1945年3月26日、米軍は慶良間諸島、次いで4月1日に沖縄本島に上陸すると同時に、日本帝国政府のすべての行政権を停止して南西諸島を米国海軍軍政府の管轄下におくことを宣言する「ニミッツ布告」を公布した。読谷村比謝に米国海軍の軍政府をおいて南西諸島の軍事支配を本格的に開始し、沖縄は日本から政治的に切り離されることとなった。
日本がポツダム宣言受諾を発表した8月15日、「戦闘」から「駐留」に移った軍政は、沖縄本島中部の石川にあった民間人収容所で各収容所から住民代表を招集した会議を開いた。会議の結果、沖縄諮詢会が設置され、委員長に志喜屋孝信が選ばれた。沖縄諮詢会は、米軍政府と住民との橋渡し役として、食糧配給や土地所有権認定措置法案、戸籍法の整備、旧村への住民移動、教育・公衆衛生、人口調査などに取り組んだ。9月20日には、沖縄本島の収容地区で初めての選挙(市会議員選挙)が実施され、本土も含めて初めて女性に参政権が認められた。日本占領軍の最高司令官であるマッカーサーは、北緯30度以南の南西諸島を日本から分離する決定を1946年1月に下しており、沖縄は本土とは全く違う道を歩むことになった。日本本土で実施された、新憲法の発布を含む数々の民主化政策は、沖縄には適用されなかった。
1946年4月、沖縄諮詢会は「沖縄民政府」に改編され、志喜屋孝信委員長は引き続き沖縄民政府知事に任命された。しかし、知事や議会議員は軍政府によって任命されたもので、この後軍政府の担当が海軍から陸軍にかわって米国民政府がおかれるが、実質的には一貫して沖縄駐留米軍の支配下にあった。「軍政府はネコで沖縄はネズミである。ネズミはネコの許す範囲でしか遊べない」という言葉にあらわれているように、住民の自治権はかなり制限されたものだった。
1947年5月、戦後初の全島規模の政治集会「沖縄建設懇談会」が開かれ、民衆の意志が反映できる議会の設置や道徳の高揚、物資配給の適正化などを求める要求書が沖縄民政府知事に提出された。軍政府は、市町村長と市町村議員の選挙は認めたものの、知事と議会議員選挙の実現には消極的だった。さらに配給物資の停止や食料品の値上げなどを強行、沖縄議会を解散させるなどの抑圧を加えた。そのことを受け、住民の自治権拡大への要求は、本格的な住民自治組織を次々と発足させることとなった。成文化した綱領を持たず、有力政治家が集まる幅広い組織であった「沖縄民主同盟」、親米路線に立った「社会党」、瀬長亀次郎、兼次佐一らを中心として反米・日本復帰闘争の主軸を担った「沖縄人民党」が結成された。
1948年1月、各収容所や本土からの帰村も進むなか、米軍政府は市町村長・市町村議会議員選挙を実施した。この新選挙法では、選挙権年齢を25歳から20歳に引き下げ、宮古・八重山を含む沖縄全域の男女に参政権が認められた。この時の市町村議会議員選挙で、立候補した女性15人のうち、12人が当選した。
1950年8月、軍政府布令により、奄美・沖縄・宮古・八重山の各群島に設置されていた沖縄民政府等が、四つの群島政府に再編され沖縄群島政府、奄美群島政府、宮古群島政府、八重山群島政府が設立された。住民の自治は進展したと言えるが、琉球全体に関わることや司法および群島間の事務など、軍政府が管轄する事項は取り扱うことができなかった。またこの年には「沖縄社会大衆党(社大党)」が沖縄群島知事の平良辰雄と沖縄人民党を脱党した兼次佐一らによって結成された。当初は比嘉秀平(後の行政主席)や西銘順治(後の沖縄県知事)などの保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていたが、比嘉や西銘が相次いで離党(比嘉らは保守政党である琉球民主党を結成)したことで革新色を強め、沖縄人民党とともに沖縄本土復帰運動の中心に立っていった。しかし人民党との共闘については党内でも批判があり、度々路線対立が起きた。沖縄諸島の独立を掲げた「共和党」も結成、沖縄民主同盟の合流を受け社会大衆党に次ぐ第二党となった。
1952年4月1日、琉球政府が発足する。琉球政府は、琉球における政治の全権を行うことができるものの、米国民政府の布告・布令・指令に従うこととされた。立法院議員は公選だったが、行政主席は任命制であり、その後1968年まで主席公選は実現されなかった。初代行政主席となった比嘉秀平は社大党を離脱し、沖縄保守政党の起源となる琉球民主党(最終的には自由民主党に合流)を結成した。
同年9月、サンフランシスコ講和条約によって日本が独立国として国際社会に復帰した時点で、沖縄は正式に日本から分離され、アメリカの施政権下に置かれることになった。ソ連による原爆開発、中華人民共和国の成立、そして朝鮮戦争と〈冷たい戦争〉が激しさを増してくるなか、アメリカは当初の日本非武装化の方針を捨て、日本を軍事的同盟者として育成する方向へと方針転換した。その方針の前提となったのが、〈日本の再軍備〉〈米軍駐留〉のほか、〈沖縄の分離支配〉だった。
この基本方針に基づいて、沖縄では基地建設が本格化し、米軍政府の民政府への改編、地元中央政府の設置など、長期安定統治のための足固めが進められた。この米軍による沖縄の基地化に対する沖縄県民の抵抗は「島ぐるみ闘争」へと発展していく。
参考・沖縄県公文書館
米軍は沖縄戦で住民を収容所に送りながら広大な土地を接収して基地建設を進めていた。そして終戦後の1952年、サンフランシスコ講和条約が発効され戦時から平時に移行すると、土地使用について法的処置が必要となった。軍用地の地主の側からの地代支払いの要求も高まった。さらに、これまで米軍が占有していなかった土地についても新規に大規模な土地収用を開始して軍用地を拡張していたため、地主や農民を中心に反対運動が激化していった。1952年11月、土地を接収された住民と賃借契約を結ぶための米国民政府布令第91号「契約権について」が公布されたが、賃貸借期間は20年、一坪の年間賃料は2セント(B円1円80銭)程度、約9坪でコカコーラ1本分という話にならない程の悪条件であったため、契約に応じる人はほとんどいなかった。
1953年4月、GHQが沖縄に置いた統治機構である琉球列島米国民政府は、新たな軍用地接収の手続きを定めた米国民政府布令第109号「土地収用令」を布告し、米軍主導による「銃剣とブルドーザー」という言葉に表現される強制的な農地の接収を強行した。1953年に島尻郡真和志村(現・那覇市)、現在の那覇空港がある島尻郡小禄村、米軍最初の上陸地で今ではトリイ通信施設のある読谷村渡具知区、1955年には伊江島、現在の普天間基地のある宜野湾村 伊佐浜といずれも問答無用の強制接収であった。
そのさなか、アイゼンハワー米大統領は1954年1月に沖縄基地の無期限保有を宣言し、琉球列島米国民政府(USCAR)は、軍用地代の「一括払い方式」を行うことで半永久的に使用する方針を示すが、住民はこれに激しく抵抗した。沖縄県議会にあたる立法院もこれに反対し、1954年4月30日に「土地を守る四原則」を決議した。
1. 一括払い反対 - アメリカの軍用地買い上げ、または永久使用、借地料の一括支払いは行わないこと。
2. 適正補償 - 使用中の軍用地は、住民の要求する相応の金額で、一年ごとに支払うこと。
3. 損害賠償 - 合衆国軍隊による一切の損害は、住民の要求する適正な賠償額で支払うこと。
4. 新規接収反対 - 合衆国軍隊が収用している土地で使用していない分は出来るだけ早く返還し、新たな土地の収用は絶対にしないこと。
この決議と同時に、行政府・立法院・市町村会・土地連合会の4団体は四者協議会を組織し、直接米本国政府との交渉に乗り出した。
四者協議会の代表団の要請に基づき、米下院軍事委員会はM.プライスを委員長とする調査団を沖縄へ派遣し、調査活動を行った。この調査団が1956年に議会へ提出した報告書は「プライス勧告」と呼ばれ、その骨子は次のようなものであった。
1. 土地料の値上げを認める
2. 不要の土地は返還する
3. 軍用地は絶対所有権を確保して、土地代は一括払いとする
4. 新規接収は最小限にとどめる
その中に「一括払い方式」が明記されていたため、沖縄の世論は更に沸騰した。
同日、立法院は緊急本会議を開催して「四原則貫徹」を決定、日本国政府にも断固たる態度を要求した。行政主席の比嘉秀平も四原則貫徹を誓う。四者協議会は総辞職し、住民大会、本土への代表派遣を決め、新たに「四原則貫徹本部」を設置し、これを民間16団体が支持し住民の共闘組織結成を決めた。
数日後プライス勧告の全文が発表されると、全沖縄64市町村のうち56で市町村住民大会が開かれる。この土地をめぐる闘いを「島ぐるみ闘争」と呼ぶ。1956年7月28日、那覇高校グラウンドで開催された「四原則貫徹県民大会」には約15万人が結集した。
米軍は、中部地域に軍関係者の民間地域への無期限立ち入り禁止(オフ・リミッツ)で対抗した。これは米軍人を顧客とする事業にとっては一種の経済封鎖であり、沖縄住民の側は譲歩を迫られる結果となった。
1958年4月12日、ムーア高等弁務官は一括払い中止を公表し、土地使用料の大幅な値上げが行われた。しかし一方で、新規接収は黙認され、損害賠償は未解決であった。土地使用料については原則毎年払いとされたが、希望者には10年分前払いも認められた。同年12月末、立法院は関係法案を可決し、土地問題に一応の決着が付いた。米軍・沖縄住民お互いの譲歩があった結果であり、このことが後の祖国復帰運動に影響を与えることになる。
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