『母』

原作・三浦綾子 作・杉浦久幸 演出・鵜山仁


2023年5月に4ステージを残し公演中止となった、佐々木愛 最後の主演作が3年越しのファイナルステージ!


「ほれっ! 多喜二! もう一度立って見せねか! みんなのために、もう一度立って見せねか!」
 1933年、2月20日。小説家小林多喜二が特高警察によって虐殺された。拷問跡の残る遺体に、多喜二の母セキは寄り添い、ずっと頬を撫で擦っていた。貧しさの中、学校へも通えず、13歳で結婚し、懸命に働き六人の子を育てたセキ。そんな母の姿を見ながら、小林多喜二は小説を書いた。

 貧しく虐げられた人たちのことを思い、書き続けた。

 晩年、セキは息子多喜二を語る機会を得る。母さんを人力車に乗せて、この通りを走らせてやりたいと願った、多喜二青年の夢と愛の軌道――。

 無学の母は、問われるままに語り始める……。


上演時間

約1時間40分(休憩なし)


公演日程・劇場

2026年5月19日(火)~24日(日)


あうるすぽっと(東池袋)

●東京メトロ有楽町線「東池袋駅」6出口・7出口直結
●JR他各線「池袋駅」(東口)よりグリーン大通り直進徒歩10分
●都電荒川線「東池袋四丁目」徒歩2分



※鑑賞サポートのご案内


前売り開始

3月3日


料金 (全席指定・税込)         

当日券・当日精算券 6,000円 前売精算券5,500円
Uシート 5,000円 (前方端、一部見切れの可能性)
30才以下 4,000円 (劇団へ直接お電話ください)
高校生以下 3,000円 (劇団へ直接お電話ください)

後援会割引

サポーターズ会員 無料でご招待
友の会会員 4,500円
上記共にご同伴の方 5,500円



公演窓口    

劇団文化座
TEL:03-3828-2216
(日曜・祝日を除く10時~18時)
MAIL:info@bunkaza.com



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キャスト

セキ 佐々木愛


小林多喜二 藤原章寛


チマ 姫地実加


タミ 高橋未央


ツギ 萩原佳央里


幸 市川千紘


三波 神﨑七重


三吾 小佐井修平



スタッフ

美術=乘峯雅寛
衣装=岸井克己
照明=古宮俊昭
音楽=高崎真介
音響=原田耕児

協力:三浦綾子記念文学館


チラシ

PDFで見る(両面)


Photo Gallery


   





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『三浦綾子さんについて』(文中敬称略)


 原作『母』は1992年に角川書店にて刊行し、1995年に角川文庫に収録された。

 作者の三浦綾子は結核との闘病生活の中でキリスト教(プロテスタント)の信仰に目覚め受洗し、1961年、『主婦の友』募集の「婦人の書いた実話」に『太陽は再び没せず』を投稿し入選。1963年には朝日新聞社懸賞小説公募に応募し、『氷点』が入選、同新聞社で連載となる。その後『氷点』は71万部の大ベストセラーを記録し、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画化された。そしてデビュー当時から「小説を書くことは信仰生活なのである」「キリストの福音を伝えようとして書いている」と公言し、作家活動を続けた。宗教を全面的に打ち出した作品はその文学性に疑義がもたれるのが常だったが、批判を承知の上で数々の作品を書き続け、その作品は多くの読者に愛され、多くのアーティストたちにも影響を与えている。

 『母』は夫であり、歌人の三浦光世の依頼で書き始めた。小林多喜二のことも、共産運動のこともよくわからず戸惑いのスタートであったが「取材を始めてから次第に熱が入り、感動とともに書き終えた」と述べ、「こうして取材が始まった。調べるに従って、第一に私の心を捉えたのは、多喜二の家庭があまりにも明るくあまりにも優しさに満ちていたことだった」とあとがきに残した。三浦の作品は『塩狩峠』の頃から、三浦の口述を夫・光世が書きとめるといういわゆる口述筆記によるものであり、三浦文学のほとんどで協働している。

 「母』には多喜二の没後27年、終戦の15年後、北海道に暮らすセキが自分の一生を振り返りながら、「世の中に貧しい人がいなくなって、みんな明るく楽しく生きられる世の中にしたい」 と願った多喜二の人生をも浮き彫りにする。そして多喜二の理不尽な死を乗り越えて生きていく姿が描かれている。

 文化座公演『母』ではセキの聞き手として「三波よう子」が登場する。


『小林多喜二』(文中敬称略)


 1910年代から20年代にかけての大正デモクラシーの潮流の中で労働運動が活発化、加えて戦後恐慌による貧困がマルクス主義を浸透させていました。20年代に入ると文学の世界でも新たな潮流が産まれます。資本主義を批判し、労働者階級の連帯を訴え、過酷な労働環境の描写が特徴のプロレタリア文学です。

 小林多喜二は日本のプロレタリア文学を代表する作家として名を残しており、彼の代表作『蟹工船』は時代に鋭い問いを投げかけました。権力によって拷問を受け、29歳の若さで命を奪われることになる多喜二の濃密な人生は、激動の昭和初期を生きた一人の若者の物語としても、今なお私たちに多くのことを訴えかけています。

<生い立ち>
 小林家の次男として多喜二は産まれた。秋田県北秋田郡下川沿村川口にあった小林家は代々大地主の家系だったが、多喜二の父の兄、慶義の事業失敗によって田畑を失い、自作兼小作農家となってた。父の名は末松、本や小説、芝居が好きで、背が高くやさしい人だった。母の名はセキ、隣村釈迦内から13歳で嫁いできた、働き者で丈夫で愛情深い人であった。

 事業に失敗し傾いた家の始末を弟・末松に任せて上京していた慶義は再び事業に失敗、当時活況に沸いていた北海道・小樽へ活路を見出さんとした。 そして慶義の長男が町のパン屋で働き出すと、翌年、その支店を譲り受け、「小林三星堂」の看板を掲げる。しかし、商売も軌道に乗り始めた明治37年、小樽大火で店が全焼してしまう。しかし慶義はここが勝負どころとばかりに、火事の翌日には新しいパン工場を建て始めた。日露戦争が始まっていた折りでもあり、どこよりも早くパンを売り始めた三星堂は、樺太を狙う軍艦に食パンを売るなどして大繁盛、小樽で一番のパン屋となった。

 成功者となった慶義は、それまで自らの失敗のつけを背負わせ続けてきた末松一家を小樽に招いたが、一家は秋田を離れる決心がつかなかった。しかし長男で多喜二の8歳上の兄・多喜郎だけは小樽に送理、中学に進学させることにした。だが多喜郎は小樽で急性腹膜炎にかかりこの世を去ってしまう。末松が長年の心労からか心臓を悪くしていたことに加え、長男の急逝で活力を失っており、一家は北海道への移住を決断することになる。この移住は後の多喜二の文学活動に決定的な影響を与えることになった。多喜二はその頃4歳、小林家には長男・多喜郎、次男・多喜二の他に、長女・チマ (チマの前にヤエが生まれているが早逝)。 産まれたばかりの次女・ツギがいた。

 「小林三星堂」はその後大王子製紙の工場が創業を始めた苫小牧にも開店、現在でも「三星」の屋号でハスカップを使った銘菓「よいとまけ」を中心に苫小牧を代表する洋菓子店として営業している。

<小樽での生活>
 兄・慶義を頼って小樽に移住、兄のパン屋の支店を開いた小林末松一家だったが、多喜二は「ぼくが4歳の頃、食えなくなったぼく達の一家は北海道小樽に移住した。場末の町で駄菓子屋を始めた。爾来ぼくは其処に二十何年住んだわけである。だが、生活は依然として食うや食わずであった」と書いている。パン屋といっても、他に駄菓子や大福餅や豆腐、雑貨なども扱っていた。

 多喜二は大正5年、慶義の援助をうけて庁立小樽商業学校に入学、慶義の経営する三星の工場に住み込みで働き、通学した。姉のチマも、貧乏家庭の娘としては異例の女学校に入学し、豆煎り工場で働きながら通学した。
「ぼくは学校に通う長い道を、鉱山を発見して、母を人力車へ乗せてやることばかりを考えていた。姉は火山灰会社に働きに行って、真白になって帰ってくると、長いことかかって髪を洗っていたことや、妹が石炭カスの捨場へコークスを拾いに行ったことを覚えている」(多喜二自筆の年譜)

 明治42年には三吾が産まれる。次女ツギと三吾の間に末治が産まれているが昭和3年に婿養子縁組していることのほかにはあまり詳しくわかっていない。大正2年、五男・多喜志が生まれるが、早世する。大正5年には末妹・幸(ユキ)が産まれている。裕福とは言えない生活だったが小林家は明るく、賑やかなことで近所でも有名だった。中でも一番「ふざけん坊」で明るかったのが多喜二で、どの兄弟にも荒々しい言葉は使わず、何でも静かに言って聞かせる兄だった。後に東京交響楽団の第一バイオリン奏者となる弟の三吾に初任給の半分以上を費やしてバイオリンを購入、先生にもつけた。小学校を卒業するも進学せず、体の弱かった父になりかわって店を支えていた三吾の夢を全力で後押しする多喜二の想いがうかがえる。

<多喜二の学生時代>
 庁立小樽商業学校に入学していた多喜二でしたが、その5年間は肩身の狭いものでもあった。職場では経営者の身内としてどこか距離を取られ、学校では援助に対して良い成績で応えたいという重圧もあったようである。そんな中、絵画に熱心に取り組んだ多喜二でしたが、あまりの熱中具合と将来を危惧した伯父・慶義からの言いつけもあり絵画から離れ、徐々に文学へ傾倒していきます。そして卒業後も慶義からの援助を受け、高等商業(現小樽商大)入学し、若竹町の自宅に戻る。多喜二にとってはじめて自主的な生活に恵まれ、広やかな展望の開けた時期だった。文学への熱意はますます強まり、雑誌に短編小説の投稿も始めていた。

 小樽高等商業学校には、教師として経済学者、評論家、歌人の大熊信行が、そして多喜二が2年生の時には、1年生に伊藤整がいた。既に文筆家として頭角を表しはじめていた多喜二は、小樽商業で実際に起こった校長排斥事件の巻き添えとなった体操教師の悲哀を、ユーモアを交え温かく描いた『老いた体操教師』が『小説倶楽部』に掲載され、商業雑誌デビューを果たしていた。1学年下の伊藤は多喜二を意識しており「図書館で芥川龍之介などの小説を借りると、私が借りる前に、あの顔の蒼白い彼に読まれていることを意識した。教師や他の生徒たちに読まれても平気だった。どうせ彼らには何も分る筈がない。しかし、あいつが読んだ後では、本の中身が抜き去られているような気がした」と書いている。多喜二は「おとなしそうな一年生の私(伊藤)が詩を書く人間であることを誰からか聞き、しかもどうやら前々から見たことのある顔だと思い出したらしい。そして出逢うと、やあ、という声をかけ、大変人なつっこい笑い方をした。」

 伊藤は更に当時の小樽高商を「文学的な、または社会思想的な一種の激しい雰囲気が、その頃この学校にあった。この教師たちは、みな若く、当時の自由主義的な雰囲気の中で、一種の溌刺とした校風を作っていた。そこの教育は、全体として、商業実習的であるよりも、かなり社会思想研究的であり、かつ文学的と言っていいほど語学偏重主義であった。」とも書いている。


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<田口タキとの出会い>
※田口タキ、三浦綾子原作『母』では(もちろん文化座公演『母』でも)”タミちゃん”として描かれる多喜二の生涯の恋人。名前が違うのは『母』執筆時点でご存命だったタキさんへの配慮からであろうと推測されます。

 1924年、小樽高商を卒業した多喜二は、北海道拓殖銀行(拓銀)に入行、小樽支店に勤務することになり安定した生活が始まった。文学仲間たちと同人雑誌を創刊しプロレタリア文学運動に関心を持ち始めていた多喜二だったが、人生を左右する運命の出会いがあったのもこの頃だった。

 多喜二の5歳年下だった田口瀧子(以下愛称:タキ)は小樽に産まれ、両親は「泉」という2階建ての大きなそば屋を営み、大勢の兄弟と共に育った。タキは優秀で小学校を1番か2番の成績で卒業していた。しかし、ちょうどその頃、父が商売に失敗し、一家は函館に夜逃げすることになる。だがそこでも生活は成り立たず、「手伝いに行ってくれるように」と室蘭の銘酒屋(カフェーとも、諸説あり)に半ば騙されるように売られていった。一家はその金で小樽に戻り、父が日雇の仕事などをして暮らしていたが、その父が多喜二の家に近い若竹町の踏切事故で死亡する。自殺か事故かは不明である。

 取り残されたタキの母は子供を抱えたまま生活の道を断たれ、日雇い労働者で市井の無頼の徒であった男と再婚する。そしてその義父はタキを室蘭から小樽の「やまき屋」に転売する、実父の死後4ヶ月後のことであった。

 「やまき屋」は入船町(当時は入舟)にある小料理屋風の店で小樽で”そば屋”と呼ばれており、タキは美人で評判の酌婦だった。そのタキが多喜二の友人たちの間で話題になり「やまき屋」に多喜二が出かけたことが2人の始まりであった。

 小料理屋で美人と評判の酌婦だったタキであったが、一日も早く自由の身になりたいと少しずつ金を積み立てていた。その頃「やまき屋」に足繁く通うようになっていた多喜二はタキの境遇に深い同情を寄せ、苦界からの救出を決意することとなる。

 知り合って半年後の1925年3月、「闇があるから光がある」という出だしの手紙を書き送って以降20余通の恋文を続けていたが、その間、「多喜二は「やまき屋」に普通の客のようにして瀧子と何回となく会っていたが、一度も彼女に肉体の要求をしなかった。」とあるように2人は長い時間お喋りをし、眠り、本を貸す、そんな時間を積み重ねていた。

 そして1925年の暮れ、タキは遂に「やまき屋」から救い出される。タキの身請け時の前借りは5百円、タキが貯めていた金を差し引いても多喜二の月給の数倍の金額で、多喜二は暮れのボーナスを充てることを決意して、家族の了承を得ていた。そして親友の嶋田正策から2百円を借りる。この2百万円もまた三菱に勤めていた島田のボーナスからで島田の月給の3ヶ月以上の金額であった。そして2百円のうち五十円を除いては返すことができなかった。

 身請けを果たした2人でしたが、結婚という形ではなく「家族」という形で実家に引き取ることになります。身請け直後は義父の元に戻ったタキでしたが、2ヶ月後には多喜二が奥沢にある家の二階を借り、そこに移り住まわせた。義父に再び売られてしまうことを懸念した多喜二は最終的に自分と家族の住む家に連れて行くことを決断する。

 家族にとっては驚きではあったが、「別に大変でもなかった…誰も反対しなかった。いいことなんだし、母もむしろよろこんでたらしいです …」 と姉チマは言う 「正しいことをしたんだから、と母がいってましたね。 ボーナスもあのときは持ってこられなくて、楽でない生活でしたけど。」 「タキちゃんは、いい人でした」

  「家族」として小林家に住むこととなったタキだった。とはいえもちろん2人は恋人という距離感であり、婚約者に近い感覚であったようだ。母セキは赤飯を炊いて祝い、内気で従順でありつつも芯の強さが垣間見えるタキの人間性を気に入り、その悲劇的な境遇に大いに心を寄せ、自分の娘にしたいとまで思った。家族にも溶け込み、三吾のバイオリンの初舞台にはかすりの着物を夜を徹して縫ったこともあった。しかし一流の会社に勤める人間が下界の人間を身請するなんて…というのが世間一般の考えでもあった。

 タキは後年「昔兄さんに違えなかったとしたら今の自分はどうなっていたか、考えると背筋が寒くなってくる」 と三吾に大きな感謝を語ったが、その反面、「近所の病院長の娘さんが遊びにくると、弟の三吾さんがバイオリンを弾き、声楽というのか、みんなが五線譜を見ながら声を合わせて歌う。 到底わたしは多喜二にもこの家にもふさわしくない人間だと悟った」と語ったように育った境遇の差を払拭することは最後まで出来なかった。

 1926年5月28日夜、姉チマの夫の佐藤の勧めもありタキは結婚を申しこまれる。しかし「自分は多喜二のような立派な将来性のある人にはふさわしくない」という考えを捨て切れず、これを断った。その後も同居は続くが11月にタキは家人の誰にも悟られないようにして家を出た。 多喜二が東京へ出ることの邪魔にはなりたくない、家出をしても決して堕落の道はたどらない。多喜二を東京へ出すために自立してゆく、という内容の手紙を残した。

 1週間後に多喜二はタキを探し当て、時々散歩したり映画をみたりしていたが、再びタキは姿を消す。二人の関係は途絶えたが、2年後、小樽に戻り綾子と名を変えホテルで住み込みの仕事をしていたタキと多喜二は再び出会う。上京する多喜二の後を追う形でタキも上京し理容学校に入学する。そして二人は一緒に暮らすこととなった。しかし、タキが学校を出て、助手を務めるという矢先に多喜二は検挙される。一方、タキも義父が亡くなり、家族の面倒を見るために小樽に戻ることになる。

 多喜二の出獄後、タキは妹を連れて上京した。多喜二は結婚の同意を求めたが、やはり彼女は応じなかった。

その後地下生活に入った多喜二とも幾度となく会ってはいたが、ついに結婚することはなかった。

 タキは多喜二の命日には毎年欠かさず手紙と供物を送っている。自身の結婚の際にはセキに相談するなど、家族との付き合いは続いていた。多喜二の亡き後に結婚され妻として母として毅然として生き、2009年6月に102歳で逝去された。

<プロレタリア文学への目覚め>
 1924年、小樽高商を卒業した多喜二は、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に入行。優秀で柔和なため行内で評判もよく、安定した生活が始まった。この頃の拓銀は北海道開発のための資金供給と、資本家や地主への融資を中心に行っていました。就職と同時に、友人たちと同人誌「クラルテ」を創刊した。「クラルテ」というのは、反戦小説「クラルテ」からとった(言葉は「光明」の意味)。

 銀行員として資本主義の支配構造に関与していたこと、就職から間もなく急死した父・末松の苦難に塗れた人生、恋人・タキの背負わされている苦労、そして当時北海道に溢れていた、甘い言葉で労働者を誘い出して半強制的に働かせる「タコ労働」、その「タコ労働者」に優しかった母・セキの背中。多喜二が貧困や差別のない平等な社会への思いを作品にするのは自然なことであった。また多喜二は小樽高商時代から志賀直哉に深く傾倒しており、熱烈な手紙や自作を送るなど私淑していた。志賀は政治的・組織的なプロレタリア文学運動とは一線を画していたが、多喜二らプロレタリア作家らともなごやかに交流していた。

 1927年ごろから、小樽合同労働組合を通じ、北海道各地の労働争議や小作争議、労農党の普通選挙運動への支援活動をするようになり、その後全日本無産者芸術連盟(ナップ)の日本プロレタリア作家同盟に加盟する。

 そして1928年、同年に起きた三・一五事件(左翼運動の大量検挙)を題材にした『一九二八年三月十五日』を、ナップの機関誌『戦旗』で発表。特別高等警察による拷問の様子を生々しく描写しており、この描写は特高警察の憤激を買い、後の多喜二の運命に影を落とすことになる。

 1929年には、多喜二の代表作となる『蟹工船』を『戦旗』に発表。北洋カニ漁業におけるカ漁夫・水夫たちの過酷な労働現場を描いた。逆境に抵抗する労働者たちが生き生きと描かれ、背景の国際関係、軍事関係、経済関係も浮き彫りにした大作で、単行本化され、発禁処分を受けながらも、半年間で発行部数3万5千部のベストセラーとなり、一躍プロレタリア文学の旗手として多喜二を世に知らしめることとなった。それは同時に特別高等警察に、要注意人物としてマークされ、監視されることを意味していた。

 同年、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた『不在地主』を『中央公論』に発表する。当局にとっては看過できないものであり、1929年11月16日、ついに北海道拓殖銀行を諭旨解職となる。1930年春には東京へと転居し、作家として、社会運動家として後戻りのできない道を選ぶことになる。

<上京>
 小林多喜二は1929年11月26日、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店を解雇された。原因は多喜二の執筆活動によるものであるが、銀行もそうとは明示できず、多喜二を説得して「依願退職」の形をとった。退職時には男性の送別会、女性の送別会それぞれ行われ同僚は一人残らず参加したという。左翼思想を睨まれての解雇された一社員の送別会としては異常であり、多喜二の行内での人望が伺われる。退職が避けられなくなった多喜二の不安は今後の経済的なこと、そして何より母・セキにその事実を伝えることが何よりも辛く「俺の口からはどうしても母に云へないのだ」と苦悩していた。失職後も銀行に通っているふりをしていたが、遂に「お母さん、面白い話があるから…」と裏腹な態度で切り出した。

 作家として家族を養い生活していく不安を抱えていた多喜二であったが、『工場細胞』を「改造」に、『暴風雨警報』を「新潮」に発表した。先の『不在地主』を発表した「中央公論」も含め、一流誌から中央文壇に名乗りを挙げることになった。そして、小樽に一方ならぬ愛着を見せていた多喜二ではあったが、念願でもあった東京進出が現実になっていく。

 1930年3月末、ジャーナリズムの唯一無二の中心である東京へ活動拠点を移すこととなった。小樽の友人に「君に迷惑かけるといけないから、今後一切音信しないことにしよう」と告げた覚悟の出発であった。中野の友人の下宿先に転居し、その後多喜二を追いかけるように上京したタキと中野区上町で共に暮らした。

 プロレタリア文学は、一般文芸誌の誌面の半数を占めるといった事態もあったほど昂揚していた。そのきっかけとも言える多喜二は日本プロレタリア作家同盟の書記長として迎えられた。当時「プロ文」は”食える芸術”でもあり、『不在地主』の執筆に対する原稿料として500円(現在の数十万円〜百万円相当)を受け取ったと言われ、多喜二はその全額を母・セキの元に送り小林家の墓を建立し、その後、地下活動に入っても母や家族を想い原稿料の送金を続けた。

 執筆活動の他にも講演活動も行ったが、1930年5月中旬に講演先であった大阪で検挙される。「五・二〇シンパ事件」と呼ばれるプロレタリア文化運動への弾圧である。

<多喜二と治安維持法>
 小林多喜二は小説『一九二八年三月十五日』を「戦旗」に発表以降、治安維持法を武器にした特高警察の”要視察人”となっていた。そして1929年4月16日、日本共産党員の全国1道3府24県にわたる一斉検挙が行われた(4.16事件)直後、若竹町の自宅が家宅捜索を受け、多喜二も拘引されるが、すぐに釈放されことなきを得る。しかし1930年5月、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌『戦旗』防衛巡廻講演のために向かった関西地方で、二度目の特高の襲撃を受ける。5月20日、特高が戦旗社を襲い23日に多喜二は大阪島之内警察署で検挙された。

 「お前は「三・一五」という小説を書いて、おれたちの仲間のことをある事ない事さんざん書き立てやがって、ようもあんなに警察を侮辱しやがったな」と酷い拷問を加えられた多喜二だったが、6月7日に釈放される。共産党への資金援助を治安維持法の目的遂行罪に問われて送検されたものの、結果は不起訴であり、この拷問が小説『一九二八年三月十五日』に対する警察からの報復であったのは明らかだった。6月24日に東京で再び検挙、7月に『蟹工船』の作中、献上品のカニ缶詰めに対する「石ころでも入れておけ!かまうもんか!」という記述が不敬罪の対象となり追起訴を受ける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。保釈後の1931年10月、当時非合法の日本共産党に入党する。1932年春の危険思想取締りを機に地下活動に入り、自らの地下生活の体験を元にした『党生活者』を執筆した。

 1931年9月6日、多喜二・村山知義・中野重治等が群馬県伊勢崎町(現伊勢崎市)の文芸講演会に出る前に茂呂村(現伊勢崎市)の故菊池敏清宅で検束された。しかし抗議に駆けつけた民衆が伊勢崎警察署を包囲し、抗議、占拠、乱闘のすえ、両者の交渉がもたれ、検束者全員の釈放が実現、しかも抗議団に逮捕者はなかった。治安維持法下において、民衆の団結が警察の不当な検挙を覆した稀有な事例であり、多喜二が当時の一般市民から非常に高く評価され、愛されていたことを示している。この事件は釈放の条件に事件を公開しないという紳士協定があったために長く表に出なかった。小林多喜二奪還事件とも呼ばれ、伊勢崎では長年「伊勢崎・多喜二祭」が開催されている。

<小林多喜二の死>
「小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめているじゃないか、こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。いいか、おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ、このことだけは、やつがつかまらない今のうちからはっきりいっておくからな。いいか、連絡であのやろうにあったら、忘れずに伝えてくれ!」

 日本プロレタリア作家同盟の中央委員長であった江口渙は警視庁特高第二課へ交渉へ訪れた帰り、警察官の中川成夫にそう言葉を投げつけられた。

 1931年7月、多喜二は杉並区馬橋3丁目375番(現在では阿佐ヶ谷)に一戸を借り、母・セキ、弟・三吾と住んでいた。しかし1932年には馬橋の自宅から姿を消し地下活動に入っていた。そしてさらにその翌年、警察官・中川の言葉が現実となる。

 1933年2月20日正午頃、赤坂福吉町の芸妓屋街で多喜二は、共産青年同盟の詩人・今村恒夫と共産青年同盟の指導部にいた三船留吉と会合をもつ予定だった。しかし、待ち合わせた赤坂の連絡場所には特高警察が待ち構えていた。三船は毛利基特高課長に直接使われている大物スパイだった。「いいスパイを使うこと」これが思想警察の合言葉であり、実際、当時の共産党はスパイにより壊滅に追い込まれていった。  築地署の特高課員に追跡された多喜二は、約20分にわたって逃げ回り、溜池の電車通りで格闘の上、取り押さえられ、そのまま築地署に連行された。

 そして同日19時45分、築地署裏の前田病院で、多喜二の死亡が確認・記録された。29歳であった。

 心臓麻痺、と当局は発表したが、翌日に返された多喜二の遺体を見た者の中でその発表を信じる者はいなかった。書くのもおぞましい拷問の跡が多喜二の体中には刻まれていた。

 小林多喜二という一人の人間の死は日本史で他に例がないほど深い衝撃を与えた。通夜、告別式は警視庁によって厳重に取り締まられ、多くの人々が検束され、杉並署の留置場どころか演武場までもがその日の検挙者で一杯になった。日本各地でも公演、デモを伴った多喜二の労農大衆葬が企画された。しかしそのほとんどが警察による検束などで実行されなかった、しかしまたそれに対抗するかのように多くの印刷物が撒かれた。遠くフランスでも記事となり、中国の作家・魯迅も弔電を送った。

『小林多喜二伝』倉田稔
『小林多喜二の恋』中津川俊六
『兄の思い出』小林三吾
『田口タキ』宮野駿
『多喜二に襲いかかる治安維持法』法学館憲法研究所
『たたかいの作家同盟記』江口渙

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